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他人になったつもりの批判


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2019-10-22(火)

今日って祝日だったのですね。

おかげで仕事が少なくて助かりました。(ただし、休みではない)

いわば、新天皇の入社式ということで、本人は嬉しいのですかね。

本題です。

“客観性” はとても大切ですが、これとは別に “他人になったつもり” で他者を批判する論があります。

そういうのは客観性ではなく “被害妄想” に近いものです。

例を出しましょう。

「〇〇配信は不謹慎だ。やめれ」

いわゆる “不謹慎 (ちゅう) ” です。

かれらがゆうには、「被害 (災) 者が見たらどうする。悲しむだろ」らしいです。

被害者などの本人が言っているなら議論の余地もありましょうが、完全なる部外者の発言だから笑えません。

もっとシリアスな問題にもこういう論者は出現します。

「遺族感情がわからないのか」

「犯罪を繰り返すかもしれないから怖いわ」

「死刑廃止論者は実際に被害者にならないとわからないんだろう」(もちろんかれ自身も被害者,遺族ではない)

死刑問題です。

“〜かもしれないから死刑” って……

ここに、“被害者感情” や “遺族感情” なる便利な言葉があります。

もちろん、被害にあった人には恨めしい気持ちもあるのでしょう。これは至って自然な感情です。

ただし、これを部外者が言ったのなら。

やはり、 (とら) われている犯人 (容疑者) への集団攻撃,勝馬に乗りたい心理でしょうか。

実際の “遺族感情” も度が過ぎると、私は感じることがあります。

「犯人には極刑をもって償ってほしい」という言葉。

これに肉付けすると “私は犯人が憎らしい。私が憎らしいと思うから、犯人は、刑務官の手によって殺されて死んでほしい” でしょう。

しかも、裁判が終わっていないのにも関わらず、これをゆう人もいるから絶句します。

こんな独りよがりの遺族感情なら、わかりたくもありません。

私は純粋な死刑廃止論者ではないのですが、上のような話を聞くとアレな気分になります。

“犯人 (被告) 本人の死刑への同意” を必須にし、かつ “再犯の可能性が非常に高いと裁判所が認めた” 場合のみ、死刑も議論すればいいと私は思います。

閲覧ありがとうございました。

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プロフィール

しゅう

Author:しゅう
1991年北海道三笠市生まれ。プロフィール

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